展覧会「visions | for the world to come」にあわせて行った、キャンプタルガニー 居留民・主の大田和人さんインタビューです。
聞き手:宮城 潤(compass)
場所:キャンプタルガニー
日時:2013年7月5日
—まずは自己紹介をお願いします。
大田和人です。
通称、カジトゥ・タルガニーです。
元々、先祖代々、糸満米須のここに住んでたんで、一応ここの出身です。
まぁ、今は残念ながらここには住んでいないんですが。
世界一小さな現代美術館「キャンプタルガニー」を主宰して、遊んでいます。誰も来ないけどさ(笑)
—大田さんのアートとの出会いは?
実は熊本に小学校4年までいたんですよ。
小学校1年のときに、県下学童スケッチコンクールというのがあって、熊本市長賞を受賞して、そのときに県知事賞を受賞したのが中学3年生で。
小さいときから絵というのは好きだったんだけど、中学校3年生のときに「キチガイに刃物」というタイトルで抽象画を描いたら、絵の先生にさんざん叱られて。とっても嫌いになりました、絵が。(笑)
ところが、高校卒業して大学生のとき、夏休みに沖縄に帰ってくると高嶺剛監督が、家が隣なんですけど、カメラを振り回しているので「何をしているんだ」と聞くと、映画、ということで。
ムニャムニャ酒を飲みながら話しているうちに二人で映画を作るようになった。それがアートにのめり込む大きなきっかけだったんでしょうね。
—その後、「街と彫刻展」とも関わるようになりますよね。
パレットくもじができたときに私はそこに出向していたんですけど、正直言って「文化の発信基地」とかっこいい言葉を使いながら、何をやっていいかわからないというのがあって。
そこに丸山映先生と上條先生二人が乗り込んできて、「街と彫刻展」の企画書を開いて、こういったのをやりたい、と。
都市の中に、彫刻作品がどういう存在であるかということ、いわゆる彫刻の社会性。それと沖縄県立芸術大学ができたが、なかなか多くの人の目に触れるような発表の機会が残念ながら沖縄にはないということで、そういった場をつくりたいと。二つの理念を持ってお二人でパレットくもじに乗り込んできたんですよ。すぐ意気投合して、じゃあ、やりましょう、ということで、街と彫刻展が始まったんですよ。
我々パレットくもじとしては、これこそ今やるべきことだ、とピターっと一致したと、そういった感じでした。
—キャンプタルガニーはいつ、どのようなコンセプトでつくったのですか?
実は、それまで彫刻作品というのはあまり興味なかったんですけどね、どうしても絵画と映像、このふたつに興味が限定されていたんだけどね。それが丸山先生と上條先生とおつき合いするようになって彫刻というものに対しての興味がものすごく膨らんできて。で、最初に丸山先生の作品を購入して、次に上條先生の作品を購入して。こういろいろやっているうちに作品を置くところがなくなってしまって。そうすると、だんだん集まってきたし、もちろんもらってきたものもたくさんあるんですけど、その展示の場というものをつくりたい。あと一番肝心なものは、沖縄県立芸術大学がせっかく沖縄の地にできたと。まぁ、日本には国公立の芸術大学は5つしかないけど、そのうちのひとつが沖縄にあるわけでしょ。それをうまい具合に利用しない手はないという気持ちが相当強くあったんですよね。
そうすると、やっぱり我々、ちょっとでもアートに関心のある人間は、じゃあどうすればいいかって考えるべきじゃないかって思うようになったんですよね。
まぁ、そうすると私が那覇市の文化部長のときに、たとえばパレット市民ギャラリーとか、これは無料というわけにはいかない。結構お金をとるんですけど、若い人はそのお金を払うというのは結構きつかったんですよね。そうすると行政としていかがなもんか、っていう疑問が相当あったんですよね。まぁ、そういう意味で、あまりお金がかからなくて、若い人たちが発表できる場が必要なんじゃないかと思って、結果的にこういうことになりました。(笑)
—このキャンプタルガニーの建物はもともと大田さんのものなのですか?
はい。1951年建築の木造の建物を糸満の街の中から持ってきて、しばらく住んでいたんですけど、こういった美術館をつくりたいということで、ここに新しいコンクリートを建てたんですね。
それと先ほどの話、街と彫刻展をやっていたんで、いろんな日本国内のそれ相応な有名な方々と知り合うことができて、たとえば美術館関係者では、前の神奈川県立近代美術館の館長の酒井さんとか、東京国立近代美術館副館長の市川さんとか、京都国立近代美術館館長のさんだとか。みんなお知り合いになれて。神奈川県立近代美術館の酒井さん、東京国立近代美術館副館長の市川さんには、ここのアドバイザーに就任してくれって、まぁ快諾を得たとか、そういったのもあって、今でもおつき合いしてます。そういった形で、いろんな人が何らかの形でバックアップしてくれてるんで、それでその人たちに俺、美術館つくるぞー、って言ったら二人ともケラケラ笑っていたんですけどね。それで向こう見ずにつくっちまって、で二人ともできたあと一応観に来てました。やっぱりあんたは馬鹿だねって。(笑)
まぁ、そういうような形で、今ではここには週のうち半分近くですかね、那覇と行ったり来たりしてやっているんですけど。はてさて、どうなることやら。
—この場所や建物についてももう少し詳しく教えてください。
ここは第二次世界大戦、沖縄戦最後の激戦地で、この米須というところは、一番、部落としては死亡者が多かった地域らしいんですね。ですから、そういった歴史的な事実というのはちゃんと把握しながら、やはり戦争というものがあったら文化も何もないわけなんですよね。人の幸せもね。だから平和だからこそ文化もあるわけですよね。だから最大の激戦地、しかも最大の死亡者を出したところに、平和だからこそできる文化というか、文化的要素のあるものをなにか建てたかった。僕の場合はたまたまこういう美術館だったということなんですよね。
我々は愚かなる戦争をけっして忘れてはならないし、ここで平和だからこそできる文化というものをどんどん発表して、アクションを起こすことによって、なんらかの形で、この平和の一助になればなっていう気持ちがあるというのは確かです。そういうことで、あえて壁の色は血の色にしました。まぁだけど、血の色と言っても毒々しい血の色ではなくて古代赤といったかっこうでですね。やわらかく今生きている人たちを見守ってくれている尊い命をなくした人たちの血の色、というふうにみてるんで、包み込まれているっていうんですかね。もちろんここには収集されなかった骨というのは当然埋まっているはずなんです。爆弾とか砲弾とかに引きちぎられた肉片とかもそのまま土に還って中にしみ込んでいるはずなんですよね。そういったところに住んでいても何も怖いという気持ちはないし、新しいアクションを起こそうと思えば、その人たちに、お願いですから助けてください、一緒にやりましょう、って気持ちになれば何も怖いことはないし、心が安心できるといいますかね。だから安心して、そういう活動ができるんです。ごくごく一部の変な人は幽霊がでるとか、どうのこうのいう人がいるけどね、そんなこと言ってたら人間というのは生きてはいけないです。亡くなった方々というのは生きている人を悩ましません。見守っているはずです。
—大田コレクションはどういったものがあるのか、どういった視点、気持ちで収集しているのか、教えてください。
コレクションの中には自分の意志で集めたものではない、古い家屋をもらうときに一緒についてきたものとかいろいろあるわけです。それ以外で自分の意志で集めたものというと、どちらかというと現代的なものですね。現存している人たちが一生懸命つくっている様子とか、そういうものをみてですね、こういうふうに一生懸命している人のものだったら、という形で評価していくというかですね、それが自分の好みにあうかどうか、自分としてそれを感動できるかどうかということですね。ですから、有名な人とか無名とかか、歳が何歳とかそういったものは一切関係なしに作品そのものを見て、好きとか嫌いとか、これは感動するとかしないとか、そういう視点でコレクションをしています。
まぁ、先ほどいいましたように、だんだん彫刻の方に興味が移ってきたんで、彫刻をメインとするような美術館というのは実はあまりないんで、特に沖縄はほとんど平面ですよね。ですからあえて現代彫刻をやったんですけど、立体作品をメインにしながら、その他のものでもやっぱり自分の心象風景的なものにすごくサーッとくるようなものであれば、立体でなくても収集するというような形ですね。
ですから、その作品がいわゆる世の中で一般的に評価を受けているとか、そういったものは全然関係なし。あくまでも自分の眼で見て、心で見て、判断するということです。
—キャンプタルガニーは今後、どうしていきたいですか?
実はそこが重大問題なんですよね。
昨日も寝ながら考えたら、今年67歳になる。人間というのは病気するしないは、神様が決めることだから、よくわからんから、仮に病気になったら寿命は短くなってくるでしょう。そうすると、今は元気だからと思っていてもいつまでも元気じゃない。すると、この気持ちを引き継ぐ人がいるのかどうかにかかってくるのかな。自分が生きている間においては当初のコンセプト通りに、基本的にはアーティストと一緒になんか面白いことをやりたいな。今後も一緒にやりたいけど、やっぱり維持管理という面からみるとどうなるかちょっとわからない。だから元気なうちは当初のコンセプト通りにやり通していこう。元気なうちはよ。(笑)
個人の美術館は日本のあちこちに、大金持ちがつくったようなものがあるさぁね。で、公の美術館も世界でも稀なくらい日本は多いんだってね。そういったところはたしかに素晴らしいでしょう。公共的なものはみんなの税金でやっているわけだし、でっかい個人美術館は大金持ちがやっているわけだし。僕の場合は、正直言って年金収入しかないし、貯金もゼロです。毎月が綱渡りです。収入的には。それでもね、やりたいと思うのは若い人たちといろいろ話をしながらやっているとね、あ、この世の中まだ捨てたもんじゃない、という気持ちが実際に伝わってくるわけですよね。
人間なんのために生きているかって始終考えているわけだけど、それを考えなくなったら自分であっち逝っちゃうとかいろいろあるわけですよ。まぁ、そうじゃなくて、やっぱり生きているうちは、通常通り与えられた命というのは全うしないといけないと思ったら、それはお金の問題じゃなくて、生き様、生き様という言葉もあまり好きじゃないけど、どう生きていくか、てのは、若い人たちと話をしていると本当に将来性があるような感じがしてくるわけですよね。年寄りとばっかり話していると、あんまり将来ないもんだから病気の話とか病院の話とかくだらん話ばっかり。若い人たちと話をすると、まだ将来に向かってのすごく可能性とかいろいろでてくるので、とっても楽しいといいますかね。この管理運営というものは正直言って苦労はしているけれども、ここに来る人たちと話をすると、管理運営の厳しさというのはプッと吹っ飛んでしまってさ。ある意味で自分なりの自分で決めた人生を楽しむしかないと思い込まざるを得ない心境に陥ってますよ。
大田 和人(カジトゥー・バルトロメオ・タルガニー)
1946年生まれ。糸満市米須出身。小学4年生まで熊本県で育つ。
明治学院大学在学中、幼なじみの高嶺剛(映画監督)と共に映画製作を行う。
1972年那覇市役所に就職。パレットくもじに出向しているときに丸山映・上條文穂の両氏とともに「街と彫刻展」を立ち上げる。
その後、那覇市市民文化部長、那覇市消防長などを歴任。2007年に退職。
2005年、世界一小さな現代美術館「CANMP
TALGANIE / キャンプ
タルガニー」を開館。
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